私の大好きなep『moji moji』からの楽曲のレビューです。
これまでのレビューでも、みきとPの歌詞の塩梅と曲のアレンジの巧みさを何度も語ってきましたが、
このepから始まるセツナロック期のみきとPは、前回のアルバムから雰囲気を変え歌詞のメッセージ性に比重が大きくなります。
『moji moji』がみきとPのセツナロックの始まりですが、1曲目の『小夜子』はみきとPを有名にした代表曲のひとつです。
自らの不甲斐なさと居心地の悪さと、構ってほしさが凝縮された、みきとPのベスト盤が出るとしたら確実に入る曲です。より日本的な曲作りにシフトしたとも言えます。
小夜子という人物像
冷蔵庫の中には何もない。あるのはお茶とお薬。という点から、小夜子は一人暮らしの少女または女性かなと伺えます。
2番で「友達のえりもタカユキも 皆人のことなど 気にしてる暇もないくらい 忙しそうだしな」というところで、ある程度皆社会的に自立した年齢かと伺える描写があります。
学生当時はなかなか想像できませんでしたが、20代それなりに過ぎて、今だに何も大きなことを成し遂げておらず劣等感に駆られているのかなということが、今こうして聴いているとじわじわと実感してきます。なかなかに辛いです。
「それにしても何このエクボ ありがちな家族と人生 何一つ誇れるものなんてあるはずもないや」
という歌詞からかも、家族を出してくるあたり、私は最初、小夜子は高校生くらいなのかなと想像していたのですが、総合してみると成人して数年経っているのかなと考えます。
歌詞に共鳴するか、同情するか
改めてじっくり聴きましたが、学生当時聴いていたときよりもずっと意味を重く受け取ることができて、めちゃめちゃしんどいです。
私が小夜子が感じていることにまさに現在進行形で直面していることもあると思いますが、こんな重みを持っていたなんて昔は気づきもしませんでした。
かつては、小夜子という人物に同情していたのだと思います。そして今は、同じような道を感じて共鳴しているのだと思います。
今まで明確な表現ができなかったものの、みきとPの曲の奥深さを各所で熱弁していたのですが、こういった含みが深さを持たせているのでしょうか。
改めて、惰性な女の子に同情しきるにしきれない、同族嫌悪に近いものすら感じ始めている深い曲でした。